東京都産業労働局|成功企業電子ブック
4/16

02「メイド・イン・ジャパン」で世界へ21940年戦時中、レンズ供給が不安定に。「ならば自分たちでレンズをつくろう!」1945年「日本は物量の差でアメリカに負けたのであって、頭脳の差で負けたのではない。ドイツに負けないカメラをつくる!」戦後の復興時の御手洗社長の言葉1952年ライカに匹敵する完成度の高いカメラ「ⅣSb型」発売。1954年「ⅣSb改型」を発売!世界の市場へ躍進!ライカに追いつき、ライカを追い越せ!1961年高級カメラメーカーが中級機の開発!?と社内で大論争が起きるが、「試作機だけでも」と製品化。1週間分の在庫をわずか2時間で売り切ってしまった伝説のカメラ。中級機「キヤノネット」発売1970年開発が困難といわれていた普通紙複写機の日本初の製品化に挑む。情熱と行動力、そしてチームワークで実現した!普通紙複写機「NP-1100」発売これ以降も、キヤノンスピリットはDNAとして受け継がれ、グローバル企業として、さらなる躍進を続ける。レンズを自社生産町工場から世界へジャンプ!キヤノンのチャレンジ年表 キヤノンは、「打倒ライカ!」を戦後の原動力に立ち上がった。技術の改良と品質の向上、そして販売の強化に努め、続々とカメラを生産する。戦後再開時には156人だった社員は1950年にはその約4倍になった。同年、御手洗社長は、ライカにもない技術を搭載した自信作のカメラを持って渡米。米国大手の販売会社を訪ねるが、「ライカ以上」と技術を認めながらも「メイド・イン・ジャパン」を理由に販売契約を拒否される。このときの悔しさをバネに帰国後大奮起!大規模不燃工場を作り、設備を投入して手作業から機械加工へ移行した。化学部を新設し、新しい生産管理方式を導入するなど、改革の手を休めない。ニューヨーク支店を開設し、いち早くヨーロッパにも拠点を設けた。 そして、アメリカでの屈辱から10年後のこと。あの、キヤノンとの販売提携を拒んだ米国の販売会社が、北米におけるキヤノンの販売代理店に指定してほしいと申し入れてきたのだ。キヤノンカメラの性能と信頼性、そして「メイド・イン・ジャパン」が世界に認められた瞬間だった。世界にその名を馳せた名レンズ「セレナー50mmF1.8」(1951年)日本橋三越での「キヤノネット」展示即売会(1961年1月)キヤノン初の普通紙複写機「NP-1100」(1970年発売)キヤノン初期に受け継がれた「打倒ライカ」の夢は、社員の一致団結の原動力になった。目標とするライバルが大きいほど燃える!?成功のポイント巨大な目標の存在ベル・アンド・ハウエル社で受けた屈辱で闘争心をかきたてられて技術や販売力を磨く。不屈の精神こそ、成功企業への切符だ!悔しさ・屈辱をバネに世界を目指すには新しい不燃工場が必要だった。新工場の獲得・整備費用は合計約1億2,500万円。対して当時のキヤノンの年間売上は3億8,000万円足らず。巨額の投資に社内から反対意見が出たが御手洗社長は将来を見据え、買収を決定。苦労して資金を調達した。成功には勇気と決断が必要だ!ここぞというときの決断カメラ事業から多角化経営へ。独自の販売チャネルを構築し、海外市場を自力で展開。技術にとどまらず、販売、経営でも挑戦は続く。成功への道しるべはチャレンジャーであり続けることだ!飽くなき挑戦1952年12月発売の「ⅣSb 型」

元のページ 

10秒後に元のページに移動します

※このページを正しく表示するにはFlashPlayer9以上が必要です